ぼやき
色々考えていたら週が明けてしまった。
前回投稿のその①に絡めて、今回は他者との比較について。
自分は子どもの頃から比較癖があり、事あるごとに他者と自分を比較しては落ち込んでいた。
「他人と比較しても何も生まれない」「人は人、自分は自分」「あなたはあなたのままでいい」
救いを求めてたどり着いた本やテレビ、ネットでよく見かけるこれらの言葉がとても嫌いだった。
「そうは言っても他人は勝手に比較して決めつけてくるじゃないか。競争に勝たないと肯定してもらえない。その競争に全然勝てないからこんなに苦しんでいるのに「あなたのままでいい」なんて無責任なことを言うな!」
怒りと悲しみに震えながらいつもそう思っていた。
振り返れば学生時代から既に競争は始まっていた。模試の結果は順位が記載され、入試は合格者数が決まっている。部活も他校との戦いだし、それ以前に試合に出るためにはチームメートとのレギュラー争いを勝ち抜かないといけなかった。
就職活動は限りある席の取り合いだったし、社会に出れば競争はさらに熾烈を極め、比較の対象も増える。おかげで今となっては、ありとあらゆることで他人と比較する癖がついてしまった。
「あいつは自分よりも良い会社に勤めている。」「あいつは自分よりも仕事ができるため評価されている。」「あいつは独立して成功し、自分の何倍もの稼ぎがある。」「あいつは美人な嫁さんをつかまえて幸せそうにしている。」「あいつには子どもが生まれ、人生のステージをまた一つ上げた。」「自分は代わり映えのない毎日を過ごしているのに、SNSにアップされる他人の日常はとてもキラキラしている。」「あいつは自分よりも顔が良い。背が高い。頭が良い。行動力がある。良い家に住んでいる。良い車に乗っている。人付き合いが上手い。友達が多い…etc.」
こんな具合に挙げ出すときりがない。さすがに常日頃からこんなことを感じて生きているわけではないが、要所要所で思い知らされたときに心をえぐられる。前回投稿した飲み会でもそうだ。
この比較癖について色々と調べ、考えてみたところ、次の2点が矛盾していることに気づいた。
それは、前述の「あいつは~」以降の比較は、①自分とは全く関係のないこと、もしくは②自分の心が勝手に生み出した妄想ということだ。
① 自分とは全く関係のないこと
確かに、受験や就活、スポーツなどは合否や勝ち負けをはっきりと突きつけられるため、結果次第で通う学校や勤める会社が変わってしまう。先の人生に影響を及ぼすため、結果に一喜一憂することは仕方がないことかもしれない。
しかし、他人がどれだけ稼いでいようが、結婚しようが、充実した日々を送っていようが、自分には何の関係もない。考えてみれば当たり前の話だ。
それなのに、他人の成功談を聞くと、まるで何かを奪われたかのような感覚に陥るのはなぜだろう。
何かの本に「人は承認欲求が満たされないときに攻撃態勢に入る」と書いてあった。攻撃先は他者もしくは自分のどちらか、または両方だそうだ。他者の成功を目の当たりにしたとき、承認欲求が強いほど、それが満たされないことにより自己攻撃態勢に入り、それがいつの間にか自分からではなく、他者からの攻撃と錯覚するのだろう。
全ては自身の強すぎる承認欲求に原因があり、他者は全く関係がない。嫉妬すること自体が筋違いだ。
② 自分の心が勝手に生み出した妄想
また多くの人は「良い会社に勤めること、子どもを持つこと、良い車に乗ること、良い家に住むこと=幸福」という妄想に囚われている。自分も広い家に住み、高級車に乗っている友人を見て、よく羨ましいと感じてしまう。
しかし、冷静になって考えてみれば、自分は昔から車にさほど興味がないし、庭付き新築一戸建てやタワマンへの憧れもない。
子どもがいることはもちろん素晴らしいが、様々な苦労や犠牲が伴うと100人いたら100人の親が言うだろう。「みんなが持っているから」という理由で子を授かってしまったら、将来子育てに行き詰まったときに果たして後悔せずにいられるだろうか。
他人の作った価値観に踊らされ、それを持っていない自分は不幸であるという錯覚に陥っている。さっきから錯覚ばかりだ…
このまま他人軸で生きていれば、もし無理して良い車を乗り回せたとしても心が満たされることはないだろう。きっとまた別の欲望が生まれ、他人に嫉妬し、持たない自分への怒りや悲しみに苦しめられることが容易に想像できる。
そもそも、その良い会社、良い車、良い家の「良い」とはなにか。その定義も曖昧だ。
会社一つを例にとっても、給料、休暇、成長性、安定性、スキル習得など、重視すべき価値観次第で「良い会社」の定義が変わってくる。
ちなみに自分が羨んでいた友人の1人は某5大商社の一つに勤めており、事あるごとに世間体や給料の差を勝手に推測し、いたたまれない気持ちになっていた。どうせ自分がそんな会社に入ったら周りの優秀さについていけず、あっという間に心を病むだろうに。なぜ身の丈に合わず、そこと比べてしまうのか…
冷静に自分を見つめなおした時に、それが本当に欲しい物なのか、幸福になるうえで必要不可欠なことなのか自分軸でよく考えなければ、この自分で自分を不幸にする妄想の連鎖からは抜け出せない。
まとめ
以上のように、承認欲求の強さから、自分とは全く関係のない他者の言動に心を揺さぶられ、他人の作った価値観に振り回されながら生きていたことに、30歳を過ぎてやっと気がついた。情けない…
当然、学校教育から始まる通常の競争社会も苦しいが、競争社会そのものについては一旦割り切るしかない。自分一人が異を唱えたところで何かが変わるわけではないのだから。
むしろ、競争社会そのものより、競争社会をベースとして生み出される強い承認欲求と妄想に主に苦しめられている気がする。まずはこの感じる必要のない余計な苦しみから脱出しないことには、ベースにある競争社会と向き合うことができない。
色々書いてみると、最初に述べた「他人と比較しても何も生まれない」「人は人、自分は自分」「あなたはあなたのままでいい」もすこし捉え方が変わってきた。
少し補足して、
「(他人の価値観で)他人と比較しても何も生まれない」「人は人、自分は自分(自分の承認欲求に他人を関与させるな)」「あなたはあなたのまま(の価値観)で(幸せになれば)いい」
なら少しは聞く耳を持てるかもしれない。
今日は比較的体調が良く、心が穏やかなので前向きなことを好き勝手書けるが、満腹時のダイエット宣言然り、コンディションが良いときの決意ほどあてにならないものはない。
どうせこれまで通り取り乱し、苦しむことも多々あるだろう。
あまり自分に期待せず、まずは承認欲求を減らすことから頑張ってみよう。
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