1.今日のぼやき
小さい頃、家族ぐるみで付き合いのあった友人一家と行った旅行の思い出。
もう楽しみで楽しみで、夜一睡もできずに迎えた当日、旅行先で尿路感染症にかかってしまった。
他のみんなが遊びに出掛け、もぬけの殻となったホテルで看病する母と2人きり。
子どもの頃の記憶なんて曖昧でほとんど覚えていないが、その時感じた悔しさと自責の念は今でも鮮明に覚えている。
悔しさはわかるがなぜ自責の念を感じていたのか。
「母に看病をさせている申し訳なさからか?」
残念ながらそんなできた人間ではない。
理由は看病中の母にかけられた言葉にある。
母「なぜ病気になったかわかる?」
自分「ばい菌が入っちゃったから?」
母「違う。あなたが弟をいじめていたからよ。悪いことをしたから罰があたったのよ」
思い当たる節はたくさんあった。当時は兄弟仲も悪かった。
今思えばそんなはずないが、サンタクロースを信じていた5歳児にとって、医者から言われた疑わしき感染経路なんかより、母の語るスピリチュアルな説諭の方がよほど説得力があった。
「僕は弟をいじめたから病気になったんだ。ごめんなさい。ごめんなさい。」
痛みに耐えながら心の中で弟と神様にひたすら謝っていた。
これはほんの一例で、母は、自立するまで(なんなら今でも)事あるごとに、「罰が当たる」「神様(ご先祖様)は見ている」と言ってきた。
そのせいか、今でもなにか良くないことが起こると、直接因果関係がないところにまで原因を求めてしまう。
つい先日も転んで足首をねん挫したが、「なにか罰があたったのだろうか」「日頃の行いが原因なのか」など色々と考えてしまった。
このようなを悪因悪果の考え方は、「公正世界仮説」という認知バイアスにもとづいて生み出されるものらしい。
02.公正世界仮説と現代社会
この世は公正であり、自分の行動に対してふさわしい結果が返ってくる。すなわち悪い出来事も自業自得であり因果応報だ。
多くの人が程度の差こそあれ、同様の認識を持っているのではないだろうか。科学が発達した情報社会であっても、この感覚への違和感はそれほど感じられない。
認知バイアスであるということは、誤謬、つまり思い違いということなのだろう。
それはそうだ。尿路感染症程度で罰が当たったというのであれば、大病を患い、闘病している人はもっと大きな罪を犯したことになる。
自然災害や戦争で亡くなる人は、被害を受けない地域の人と比べて、何か悪いことをしたから命を奪われたのだろうか。そんなわけない。
災害くらい大きな話になるとそれが当たり前だと理解できるが、なぜか仕事や人間関係のトラブル等、個人的な災難が重なると本来の原因以外の要素を探してしまう。ドラマや映画でよく耳にする「俺が何したっていうんだ!」という台詞も、この悪因悪果の考えが根本にあるのだろう。
自然災害然り、世の中には自分の力ではどうしようもないことがたくさんある。それをコントロールしようとする傲慢さがこのような誤謬を生み出す。
きっと自分はとても傲慢なのだろう。起こる災難に対して「なんで俺ばっかり…」「もっとこうしておけば…」とうじうじ考え、ふさぎ込んでしまう。(中には本当に自分が原因の災難もあるため、見極めが必要だが…)
自分がほとんど関与していないにも関わらず、人間関係のトラブルに巻き込まれることだってよくある話だ。まさに玉突き事故みたいなものだ。なぜこんなことが起きたのかなんて、確かめようのない答えを求めてぐるぐる思考し続けるとますます深みにはまっていく。
自分でコントロールできることとできないことをフラットな視点で見極め、その場その場で最善の対応することに全神経を集中させないと、下手をすれば、さらに自分への被害を拡大させることに繋がりかねない。
03.公正世界仮説への向き合い方
世の中なんてどうせ公正ではない。公正であると信じたいだけだ。もし世の中が公正であれば、なぜ虐待する親の元に子どもが生まれるのか。なぜ生まれる国や家庭によって生活水準が変わるのか。なぜ能力や容姿に差が生まれるのか。なぜ真っ当に生きている自分が薄毛に悩まされなければならないのか。
努力しても報われないこともあるし、努力しなくてもうまくいくことだってある。「世の中の理不尽」に傷つけられることを恐れ、自因自果と思い込むことで予防線を張っているのだろう。
とはいえ、認知バイアスだからといってこの公正世界仮説そのものを全否定したくはない。過度に期待せず、良いことをすれば巡り巡って良いことが返ってくるかもしれないと思うくらいがちょうどいいのかもしれない。例え誤謬だとしても、そういう世の中であってほしいと切に願ってしまう。
話は戻るが、5歳の頃、尿路感染症になったのは紛れもなく細菌に感染したからだ。決して罰が当たったからではない。おおかた子どもにありがちな、菌だらけの汚い手で局部を構いでもしたのだろう。
そんなことはきっと母も重々わかっている。これ幸いと「ついでに躾もしてやろう」といった魂胆だったのだろう。
もしかすると、旅行を台無しにした息子への恨み節だったのかもしれない。
確かめる術はあるが、知っても幸せにならない気がするのでやめておこう。
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